中動態の世界とは、普段使っているOSとは異なるOSを通じて物事を見る世界。
読後感にあるのはそんなイメージです。
まるでOSがWindowsからMacに変わった感じです。
普段、私たちが世の中を見るときは「能動態 vs 受動態」すなわち、「する側」と「される側」という図式が成り立っている世界でした。
ところが、國分功一郎氏の「中動態の世界」はまるで違うものの見方を提示してくれます。
それは人や物事を、
「行為」の「外側にいる」のか「内側にいる」のかという捉え方です。
たとえば、生徒が先生から教室の掃除をするように命じられたとします。
ここでは先生は「掃除という行為」の外側にいますが、生徒は内側にいます。
つまり先生は掃除はしていないけど、生徒は掃除をしている。
このように行為の外側にいる場合は能動態、内側にいる場合は、中動態となります。
「能動態 vs 中動態」の概念では、「外側」か「内側」かが判断基準です。
國分氏によると、中動態という概念は英語には存在しないが、抑圧された形で英文法に見られるとのことです。それは人々が中動態のようなものの捉え方をしている証左であり、なんでもかんでも能動態 vs 受動態に分割できるほど単純ではないということになります。
たとえば、使役動詞(make, have, let, getなど)にその姿が現れています。
The teacher had his students clean the room.
(先生は行為の外側、生徒たちは行為の内側)
Tom had his hair washed by the barber.
(トムは行為の外側、床屋さんは行為の内側)
この「トムは床屋さんに髪を洗ってもらった」という英文は、一見、能動態なのか受動態なのかという図式で見ている限り、どちらにも見えますが(山口の英文法では受動態としています)、出だしがTom hadとなっているので能動態にも見えます。
ところが、ここで中動態の概念を使うと合点がいきます。
つまり、より正確にはTomは能動態であり、床屋さんと彼の髪の毛は中動態です。
そして、受動不定詞という項目にも現れます。
a house to let(貸家)は、「家は貸されてしまう」ものなので
a house to be letともいえますが、文法上どちらもOKなのは、中動態の捉え方が人々の意識にあるからでしょう。
(大家さんは行為の外側で、借り手は行為の内側)
I am to blame.は「私が非難されるべきだ」は
I am to be blamed.としてもいいのですが、これも
(非難する人たちが外側で、非難されている、つまり責任を負う自分が内側にいる)
最後に、中間構文にも見られます。
This book sells well. (この本はよく売れる)
The store sells this book.
(お店は「売れる」という行為の外側で、「売れる」という内側に本がある)
Your letter reads well.(あなたの手紙は読みやすい)
I can easily read your letter.
(私は読まれるという行為の外側で、手紙は読まれるという行為の内側)
そして、本書には意志の概念まで取り上げられています。
古典ギリシャ語では中動態の世界があり、その頃はそもそも「意志」という概念がなかったそうです。外側からの間接的な影響力で、徐々に内側にいる人・モノが影響を受け、それによって行動が起きるという考え方だったようです。
そのとき、内側にいる人・モノが能動的に動くのか、受動的に動くのかは、完全には能動・受動では割り切れず、たとえば、能動:受動=72:28のように微妙なせめぎ合いの中で決まっていったそうです。つまり100%能動、100%受動とはいえないので、中動態なのでしょう。
時代とともに中動態が徐々に衰退し、物事を能動態 vs 受動態という「する」と「される」という二分割で捉えるようになってからは「意志」の概念が生まれ、現在のわれわれを取り巻く世界に繋がっているそうです。
法律もこの「能動 vs 受動」の世界で規定されているようですが、國分氏によると人が何か行動を起こすときは意志だけでなく、宗教だったり、育った環境だったり、文法だったり、様々な要素が複雑に絡み合ってその人に影響しあい、最終的にそれがその人の行動につながるのだから、中動態という概念で物事を捉えることも大切であるとしています。
本書は英文法の謎を解く鍵にもつながる、非常に面白い本なのでおすすめです。