「勉強の哲学」
哲学とは物事の本質を見ることと言えます。
では、勉強の本質とは何なのか。英語塾で個人指導してるとしばしば聞かれます。
哲学者の千葉雅也氏によると、勉強とは変身であり、かつてのノリから変わること、すなわち自己破壊であり、昔の自分のノリから自由になること。だけとどこかノリの悪い人になる。そして勉強するとキモくなる瞬間があるとのこと。
勉強を続けていくと、語彙や知識が増えていきます。
例えばドラゴンボールの登場人物に詳しくなってくると、仲間内でドラゴンボールの話が出た瞬間に、「ヤムチャは弱いキャラだよね。〇〇と戦って敗れたよね」と急に自分の好きな世界に入り込んで、場の空気を読まずに無限に知識を披露し、変な人に見られることがあるのだとか。
これはツイッターを見てても感じます。
勉強に一生懸命な人、たとえばTOEICでいえば900点を目指してて現在800点後半くらいの人は個別の知識をけっこう披露してきます。
しかし900点後半になると静かになってきます。
詳しい人ほど話題に出さないのです。
(ただ、話題に出したくなるのは成長してる証拠なので、悪いことだとは思いません。)
しばらく勉強を続けていくと、場の空気を読まないキモさが消える。その場で求められている知識量がよめるようになるのです。
これは筋トレに似ています。筋トレでは筋肉だけつけることは不可能で、脂肪までついてくる。そして減量期に脂肪を絞って筋肉だけにしていく。
勉強も始めたばかりは空気を読まないキモさがあるが、続けていくとどこまで知識が要求されているかが少しずつ読めるようになり、キモさが消失する。
ところで、勉強するとノリの悪い人になるとはどういうことでしょうか。
それは「勉強すること」というのは、新たな世界のノリに移ることといえます。
英語を学べば、英語のノリに移動します。
英語を知らなかった頃のノリにもう戻ることはできません。何も知らなかったからこそ出来たハチャメチャなことがもうできなくなる。勉強するともう昔のノリには戻れなくなるという怖さがあるのです。
英語という新しいコードに身をゆだね、新たな言語に出会う「痛気持ちよさ」に浸ること。言語という他者が自分を乗っ取ることの怖さと気持ちよさの謎の混合があるのです。
戦前の高校ではフランス語履修のクラスとドイツ語履修のクラスでは、生徒の顔つきが違ったそうです。フランス語の方は柔らかい顔つきで、ドイツ語の方は硬い顔だったとか。学ぶ言語のノリがその人に乗り移るのです。
変身以外では、「有限化」の話も出てきます。
「教師とは有限化装置」の話です。
自己流で学んでいくと際限なく学び続けることになりますが、教師がいることで「まずはこのくらいでいい」と学ぶ内容を有限化してもらえるようになります(ここに教師の価値があります)。
ツイッターで失敗している宅浪生の写真を見ると、大量の参考書が映っています。しかし、どれもピカピカなのです。本屋に置けば新品と勘違いして誰か買っていくのではないかと思えるほど綺麗です。
成績のいい人は、まずやる内容を「有限化」します。基礎となる本を3冊ぐらいに絞り、徹底的に繰り返します。
河合塾の全統記述模試で英語、数学、理科とどれも偏差値70台後半の人に「普段使ってる学参を見せて」とお願いすると、たいてい手垢でまっ茶色に変色したものを出してきます。
昔はそれが辞書でしたが、最近だと単語帳だったり英文解釈本だったりします。
勉強の痕跡はモノにも現れるのです。モノすら変身し、キモくなります。しかしこれは努力の勲章といえるでしょう。
話をもう一度を「勉強とは変身」に戻しましょう。
教育系YouTuberの人たちを見てると気づくかもしれませんが、早稲田大学の卒業生と、慶應義塾大学の卒業生では雰囲気が結構違います。政治家を見てても違います。
二十歳前後にいた環境に人はなんらかの影響を受けます。勉強の中身でいえば、入試科目の影響もあるでしょう。そして「それらをなかったことにする」ことはできないのです。
早稲田の卒業生が高田馬場で電信柱に登って校歌を歌うことはあっても、慶應の卒業生がそれをするのはイメージしにくいのです。京大の卒業式ではピカチュウのマスコットを着てる人とかがいますが、慶應の三田の雰囲気からピカチュウが出てくることは考えにくいのです。
自分がどんな人になりたいかをまずイメージし、その実現に向けて勉強することが求められます。お笑い芸人になってハチャメチャなことを目指すというなら勉強が邪魔になることもあるでしょう。
しかし、物事を冷静に分析し、正しい判断を下せる「ノリ」を目指すなら勉強は大きな味方となってくれるはずです。
日本語だけの世界から、英語という新しいコンタクトレンズを装着して世の中を観察するのも気持ちのいいものです。