「大学受験はこれまでの人生の集大成だから頑張りなさい」
このツイートが一時期、Xで炎上したようである。
大学受験ごときが人生の集大成なわけがない、予備校講師は受験生に過剰なプレッシャーを与えるなと。
そのような見方が出来ないわけではないが、それだと受験生を励ます言葉も弱々しくなる。少なくとも個別指導で英語講師をしてる自分としては、大学受験の英語を突破する上で先ほどのツイートに同意する。
なぜなら、大学受験の英語では、最も配点の高い英文読解において、これまでコツコツ蓄積されてきた知識ネタがあるかどうかが読解を左右するからである。
語学は、文法と単語だけやればなんでも読めるかというと、決してそんなことはない。読解においては背景知識が要求されている。
国際貿易の話、安楽死の話、独立試行の確率の話、フロイトの夢の話、宇宙の話、憲法のはしりであるマグナカルタの話、薬の治験の話etc.
理系の生徒が、国際貿易の話になると途端に分からなくなったり、文系の生徒が免疫の話になったら読めなくなるという現象は珍しくない。
これらの知識は小さいころから図鑑を読んだり、教養番組を見たり、新書を読んだり、マンガを読んだり、受験と関係なさそうな教科で聞きかじったことがあるかどうかで読解力に随分と差がでるのである。自由英作文のネタでも差が出る。
NHKでやっている「映像の世紀」や、新聞の社説、日経サイエンスなどもどこかで受験ネタとして役立つことがある。身近な題材が受験で問われることは多い。
英語という教科は、「英語」1科目ではなく、どこかで理科や社会や公民の知識が絡んでくるので、複数教科を兼ねた科目といえる。
英語は学問か?と問う声もあるが、それは中学で習う文法や小学校で習う挨拶の仕方などの基本的な知識ばかりからくる疑問であろう。
高校1、2年ではまだ難しい文法や語彙を学ぶ時期だが、高校3年になり、徐々に過去問を解きだすと、文法や語彙を駆使して世の中のあらゆるテーマを読み解くことが要求されていることがわかる。受験学年の英語は、簡単な読み書きから、突然、現代文の姿に変わるのである。
ところで、
最近読んだ本で、山形浩生氏の「翻訳者としての全技術」という面白いものがあった。
氏がなぜ翻訳をするかというと、興味をもった文章やテーマを自分がよりよく理解するためだという。そして、すでに存在する翻訳を見て、「違うじゃないか、きちんと伝えようぜ」という意味があるのだとか。
氏の本には、本の読み方や積読についての見解が書かれてある。
本の読み方としては、
「本は気軽に読め」
「最初から最後まで通読しなくていい」
「必要なところだけつまみ食いして、全体像をつかめ」
という姿勢らしい。
読書とは人があらかじめ調べてくれ、考えてくれたことを吸収する作業なので、氏は読書を教養としては捉えず、知識を仕入れ、その知識をどう使うか考える場と見做しているのだとか。
そして知識が役に立つかどうかなどはその場でわかるはずもなく、あとから使い方が分かることもあると。
一冊を繰り返し何度も読むよりは、幅広く読む。
氏は二流のジェネラリストを自認するそうだが、ジェネラリストになるという姿勢は語学において重要だと思う。
また、積読(つんどく)に関しては氏は厳しく批判する。
積読は人生のどこかで読むからいいだろう、積極的に本を買う姿勢こそ称賛されるべきだと言われる風潮に氏は疑問を投げかける。
積読が価値を持つのは、時間が無限であるときだけで、人生が有限である場合は、全く意味を持たない。いつか読むというオプションが実行されることがないとなると、その積読本は無価値になってしまう。積読とはすなわち、やるといってやらなかった小さな積み重ねであり、果たせなかった約束の数々であると。
積読に関して手厳しいが、これらの指摘は当たっていると思う。
隙間時間を使ってでもなんとか本を読み、小さなネタを仕入れていく。その習慣が(この本の趣旨とは違うが)、最終的に入試の英文読解の差へとつながっていくと思う。
難関大学(東大、京大、一橋、阪大、科大、早慶、上智、ICU、MARCHクラスなど)は、英語で現代文的な素養を見てるところがある。そのためにも、新聞や新書でもいいので、アンテナを広く張りめぐらすことが英語上達において重要だといえる。
大学受験における英語は、現代文と表裏一体なのだ。